オルフェの遺言
神保町の古書店街の行き帰りに、近くの東京国立近代美術館に立ち寄ることがある。 話題の企画展を鑑賞しに行くわけではない。所蔵品として、いつも展示してある一枚の絵が気に入っているから。
上にそのポストカードを掲載したが、小学校の教科書等で、きっと誰もが見たことのある絵なのではないか。『エロシェンコ氏の像』というロシアの盲目の詩人を描いた油彩画で、大正時代の夭折の画家・中村彝の作品。
私も教科書の図版でこの絵に馴染んだのだが、憂愁に閉ざされた寡黙な表情は子供心にもひどく印象的。「行いは少なく、想いは満ちたり」といった内面的な風情が、教科書の頁をめくってこの絵にさしかかる度に、芸術的環境とは無縁に育った幼い私をも、厳粛な気持ちに導いてくれた。
後年、エロシェンコについていろいろ識るようになったが、ウクライナの民族楽器バラライカを片手に、当時流行した国際共通語エスペラントを駆使して世界中を放浪していたこの盲目の詩人は、大正デモクラシーのアイドル的存在だったらしい。
詩人はカレーライス発祥で有名な新宿中村屋に寄宿。たちまち日本語を習得して、各地を講演。美しい金髪の巻き毛とヨーロッパ風のアクセントの日本の言葉で語られた自由への希求は、知識人のみならず、婦女子の胸をときめかせ、熱狂的に迎えられた。講演の採録本の口絵として使われた上の肖像画を切り抜き、肌身離さず持ち歩く青年もいたらしい。ロシア、放浪の詩人、盲目といったキーワードに加え、典型とも言える芸術家的容姿が、浪漫的な大正の若者達の心を燃え上がらせ、理想、指針、憧れになったのかもしれない。
詩人の著作は、『エロシェンコ童話集』という偕成社から出ている児童向けの文庫本を以前に読んだだけだ。理想化肌の詩人の想念がストレートに出過ぎていて、子供ウケとは遠い内容だったが、こういう硬骨漢ぶりが大正という時代には魅力となって、一世を風靡したのに違いない。やがて、エロシェンコは日本政府によって国外追放となり、風のように上海、北京、印度を流離い、故国で没した。
話を『エロシェンコ氏の像』に戻すと、実物は縦横40cmくらいのとても小さな絵。ちょうど前にベンチが設えてあり、私はそこに座って眺めることにしている。〈大正のヒューマニズム〉というスペースの一角に飾られていて、たいてい誰もいない。大正のアイドルと私は、いつも森閑とした空間で対峙している。思い出したように、絵の中にいる詩人の心臓の鼓動が聞こえるのではと耳をすます。ムッとする人いきれの中、頭越しにフェルメールを眺めるより、私の性に合っているようだ。
値段だって、常設展だけなら入館料420円。八重洲のブリヂストン美術館に同じく常設されているルオーの『郊外のキリスト』、絵ではないが多摩動物公園のキリンと並ぶ、東京にあって、その気になればいつでも訪れることができる眼福の対象だ。
エロシェンコで思い出したが、八木義徳の短編小説に『ある酒詩人の死』がある。八木義徳といっても、今は知る人も少ないだろう。古書店の棚の片隅でひっそりと読み返されるのを待っている作家の一人だ。この短編に登場する酒で身体を壊して早世する編集者が、「高い額、うねりちぢれた豊かな頭髪、すこし突き出た頬骨、真っ直ぐに通った形のいい鼻梁、固く緊まった口元、やや青白い皮膚、そして顔全体に時おり影のように走る憂鬱な表情」の持ち主で、中村彝描く『エロシェンコ氏の像』にそっくりだという。多くの女性に愛され、たった一冊だけ詩集を遺して死んだ。
それは古ぼけた原稿用紙や破り取ったノートの切れ端、ビヤホールの紙ナプキン、飲み屋の割り箸の包み紙、誰かの名刺、宣伝ビラ、トイレットペーパー等の多種多彩な紙屑への殴り書きを改めて詩集として編纂したもので、小説は彼への鎮魂としてこの詩集から転載された一編の詩で終わっている。その詩は、実際にエロシェンコ似の男が書いたものなのか、すべてがフィクションで詩も八木義徳のオリジナルなのかは、定かではない。ただ、いかにもほろ酔いに身を浸した最中の感慨を伝える平明な詩興が、素朴で良い味を出している。
私のような中年男を快く酔わせてくれる映画にはなかなかめぐり合えない昨今、こんな酔眼の詩でも読んで無聊を慰めるしかなかろう。せっかくだから私のエロシェンコについての短文も、この詩の引用で終わらせよう。古書店で偶然『ある酒詩人の死』という小説に出くわさない限り、なかなか読む機会もないだろうから。
三時でなければならない
その前では遅い昼食をやっている連中がいたりするし
そのあとでは夜を待てずに
ここを始発にして飲み出すやつらがやってくるからだ
だからそのあいまがちょうど三時
だれにも知らせないで
ぼくはもう長い間
三時のこのビヤホオルを安住の地にしている
時には幽かにピアノがぽろんぽろん鳴っていたり
西洋人がじつにいい姿勢で黙然としていたり
細君のお産を気にしながら 小さな男の子を相手に飲んでいる男がいたり
そんな中休みをしているような客が
天井の高い広々としたビヤホオルのあちこちにぽつんぽつんといるのだ
この店に働いている人たちは
不思議と客の顔に露骨な視線を当てることがない
運ぶものを運ぶと
隅々のがっしりした柱の傍に戻って静かに立っている
そんな中でぼくは 豊まんな体つきの
農婦たちがおおらかに穫り入れをしている壁画を飽きもせずにながめる
まったく だれにも遠慮しなくていいのだ
だれもぼくのことをみていやしないし
それでいて
片手さえ上げれば柱の傍からいつでも用件をききにきてくれるのだ
ほんとうに
こんなに安堵できるところなんて
めったにあるものじゃない
午後の三時 この場所はだれにも
決して教えてやらない
――遠くのほうから みるともなしに
静かに見守られているというのはいいものだ
元気になってぼくは
ようやく黄昏はじめる街へ出て行くのだ














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